4 四日目
昨日の雨は、今は止んでいるのだろうか?
ベッドの中でうずくまっている舞夜はそんな事を思った。昨日は雨だという理由で一回も外に連れていってもらえなかった。今日は連れていってもらえるのだろうか。そして、またあの痛くて嫌な事をされるのだろうか。舞夜は両腕でしっかりと両膝を包み、卵のような形で布団の中で微かに震えた。
「‥‥」
今、自分は幸福なのだろうか。白い目の前を見ながら考える。喋るという行為を父に奪われ、自分の意志で行動するという事を他人に奪われた。日の光を浴びる事さえ奪われた。そして、一昨日の夜、あの体を駆け巡る痛みの中で、とても大切にしていた何かまで奪われた気がする。それが何なのかはよく分からない。でも、きっとかけがえの無いものを奪われた。
そんな自分は幸せなのだろうか? 幸せではないと感じる。こんなのは幸せなんかではない。でも、幸せが何なのか自分には分からない。
幸せという事を考えると、父の姿が浮かんだ。自分の舌を焼けた包丁で切り取った父。いつも酒臭くて、何かつまらない文句を言っては自分に拳を向けた父。自分に幸せというものを教えてくれなかった父。舌を切られた時の事を、舞夜は今でも忘れない。
こう言って、男は舞夜の舌を切った。
「お前はいつも五月蝿いな」
湿った四畳半のアパートの中で、ブスブスと音を立ててストーブの上で焼かれている包丁。舞夜は何故包丁をストーブの上で焼いているのか、その言葉を聞くまで全く分からなかった。男は日本酒の入ったコップを静かに置くと、疲れたような表情を舞夜に見せ、包丁を手にした。そして黙って立ち上がり、舞夜に近づき、顎を掴むと口を開けさせ、何の躊躇いも無く舞夜の口に包丁を突っ込んだ。
舞夜は一瞬、何が起こったのか全く分からなかった。数秒経ってから、凄まじい痛みと熱さが口の中から全身に広がった。舞夜は必死で手をのばして、男の腕を掴んだが、腕は太く硬く、取れなかった。
部屋中に響き渡る程の絶叫の中で、グチャグチャというナメクジが台所を這うような音が静かに舞夜の耳には聞こえた。やがて悲鳴は口中に広がる血で遮られ、室内はナメクジの音だけになった。
焼けただれ、縮こまったまま、汚れた畳の上に投げ出された自分の舌を見て、舞夜は学校の先生が見せてくれた聖書の事を思い出していた。
神様はどんな人にも平等に幸福を与えてくださる。聖書の中に出てきた男の人はそう言っていた。舞夜はその男の人を心の底から恨んだ。
舌を失った分、私はそれ以上の幸福に巡り合えるの?
舞夜は言葉にならない言葉を吐いて泣いた。そんな舞夜に男は相変わらずの疲れた顔を見せて、早くご飯作れよ、と言った。
そんな父親も、泥酔して寝ているところを見計らって、火を放って焼き殺した。マンションだったので、火が他の部屋にも燃え移って何人か死んだらしいが、そんな事はどうでもよかった。橙色の炎の中で藻掻き苦しみながら絶命していった父を見た時、確かに感じた幸せの方が、舞夜にとっては大切だった。
父がいた頃の生活は、幸せというものからかけ離れていた。いつも汚い服を着て、学校に行っても苛められて、家に帰っても父に殴られた。母の顔など一度も見た事が無い。いつも酒臭い父を見て、舞夜は育った。それに比べれば、今はまだ幸せかもしれない。でも、自分の求めている幸せではない。望のそそり立った性器を見た時、舞夜の脳裏には父の太く固い腕があった。ここにもあの父がいるのだ。幸せのはずがない。
最高の幸せ。それは何だろう?
布団から顔を出すと、テーブルが見えた。上には朝食が置かれ、暇潰しとして与えられた漫画本が山積みにされている。舞夜はゆっくりとベッドから起きだすと、箸を手にしてご飯を食べだした。いつもはパンとミルクだったのに、今日は珍しく米と味噌汁というメニューだった。
ご飯は美味しかった。勝手に部屋から出てしまった日から、三時にはおやつも出るようになった。しかし、何だかそれでも物足りない。大切な何かを奪われたままでいる。取り返さなくてはいけない。
ご飯を食べ終えると、舞夜は扉に瞳を向けた。重く頑丈そうな鉄の扉。あそこから外に出られる。一昨日はあそこから外に出た。でも、たった一度きりだ。人の手に引かれずに出たのは。また出たい。自分の手で扉を開けて、日の光を浴びたい。そう願った。
舞夜はゆっくりと扉に近付き、把手に手を掛けた。鈍い音がして扉が開いた。向こう側から誰かが開けたのではない。確かに自分が押したから開いたのだ。
舞夜は喜んでそこから出ようとした。しかし、股の痛みがその足を止める。また勝手に出たら、あんな目に合うかもしれない。あんな痛み思いはもうしたくない。でも、きっと外に出なくてもまたあれをやらされるのだろう。大人はそういう生き物だ。他人が痛がる事、嫌な思いをする事をやろうとする。自分以外の人間が、痛みや苦痛を感じる事で、自分が生きている事を感じようとする。他人を痛み付ける事で、自分の痛みを消そうとする。幻想だと分かっているのに。
あの父はそれが幻想だと知っていたのに、それでも自分を殴ったのだ。
「‥‥」
舞夜は扉を勢い良く開くと、階段を駆け上がった。
本物の光は眩しかった。確かな時間は分からなかったが、太陽の位置からまだ昼になっていない事だけは分かった。辺りを囲む木の葉に昨日の雨の水滴がついて、太陽の光を浴びるとまるで真珠の実でもなっているかのように見える。その太陽を覆い隠そうとするかのように、舞夜の目の前には巨大な屋敷が立っている。
舞夜は少し足が震えた。ここの中で自分はあの痛い思い出を作ったのだ。もうここには入りたくない。そう思った時、不意に舞夜の頭の中に光の顔が浮かんだ。大きくなった自分。あの人は自分に痛い思い出を与えなかった。とても優しかった。昨日会った時、何故自分はあの人から逃げてしまったのだろう。恐かったからだろうか。何に恐れていたのか。思い出せない。
舞夜はもう一度、あの人に会いたくなった。あの人なら、奪われたものを取り戻してくれるかもしれない。きっと、あの人なら探してきてくれる。
そう思った舞夜は、一番近い扉に向かった。その扉は、いつも望達が舞夜達、地下室に閉じこめた者達を屋敷に連れてくる時に使っていたドアであり、何日か前に舞夜が勝手に屋敷に入った時のドアだった。
キキキッという音が廊下の中で響き渡る。しかし、その音に気づく者は誰一人いなかった。少なくとも一階に、人影らしきモノは見当らなかった。長く赤い廊下が、その体を静かに横たわらせているだけだ。舞夜は望達四人に会わないように祈りながら、ゆっくりと歩幅を増やした。裸足の為、足音は全くと言っていいほどしなかった。
食堂に顔を出す。この前はここでケーキを食べていたらあの人に出会ったのだ。今回もそうしていれば出会えるかもしれない。そう思った舞夜は食堂の中に入る。大理石で出来た床に、ピタピタという足音がこだまする。
冷蔵庫の前に立ち、把手を掴む。しかし、扉は開かなかった。把手の部分に金色の南京錠がかかっている。辺りを見渡しても鍵らしき物は見つからない。銀色に光る流し、一定の間隔で水滴を垂らす蛇口、綺麗に洗われた食器類。その中から鍵という小さな物を発見するのは不可能に近かった。舞夜は仕方なくその場から離れ、食堂を出た。前回は偶然にも食堂で会えたが、今回もそうなるとは限らない。待っているよりも自ら会いに行った方が出会う事もあるだろう。
舞夜は一階に誰もいない事を確かめると、二階へと上がっていった。
二階に上がるとすぐだった。目の前に光が立っていた。焦茶と赤の縞模様のスカートに、白いブラウスを着た光は、いつか見た、自分によく似た少女を見つけると言葉を失った。突然だったからではない。もう会えない。そう思っていたからだった。
「‥‥こんにちわ」
「‥‥」
光は出来る限りの微笑みを作って、そう言った。当然、舞夜は喋らなかった。しかし、それにしっかり答えるように、笑みを返した。笑みまで自分に似ている、と光は作り笑いではなく、本当に微笑んだ。
「これから一人でお昼ご飯なの」
「‥‥」
「あなたも来ないかしら? ほら、一人で食べるより二人の方が楽しいじゃない?」
優香や望があんな事を言っていたから、光はこの子は盗賊だ、と半ば信じ込んでいた。しかし、やはりとてもそうには思えない。第一、屋敷の人間に出会って何の警戒心も持たないなんておかしい。それに優香の話だと、親がいるはずだ。その親らしき人物を全く見かけない。この子一人でここに来た可能性が高い。何よりも、昨日この子と会った時には、ケーキくらいしか盗まれなかった。親がこの屋敷のどこかにいるとは考えにくかった。 しかし、そんな事は光には大した事ではなかった。この子の素性など、知りたくもなかった。ただ、目の前に笑顔があるだけで何だか嬉しかった。
だが舞夜の手を握った時、光は昨日会った時と、少女は少し感じが違うような気がした。たった一日会わなかったくらいで、目の前の子がとても成長したような、そんな感じがした。まるで自分の経験した事の無い何かを、もうこの子は経験してしまったような、そんな距離を光は感じた。匂いや見た目ではない。肌で感じる雰囲気のような、不確かな感触だった。
恵美達は全員出掛けていた。光は仕事の関係、とだけ聞かされていた。しかし、本当は違った。再びあのオークションに出掛けたのだ。今は舞夜一人しか、あの地下室にはいない。そこで優香がもう一人欲しいと言い出した。三人もそれに同意した。昇が帰ってくるとオークションに行くのは非常に難しい。帰ってくるまでにあと一人は購入しておくべきだ、と四人の意見が一致したのだった。
光はいつまでも笑顔の舞夜を自分の部屋に案内した。光の部屋は女の子の部屋というにはあまりにも変哲が無かった。焦茶色の壁に、オブジェとして付けられた暖炉や絵画、そして同じような雰囲気のテーブルや机、椅子や本棚がある。とても十六の少女が使うような物ではなかった。
「スパゲッティなんだけど、私お昼はあんまり食べないの。これ、一緒に食べよう」
使い古された机に、ミートソースのかかったスパゲッティが置いてある。隣にはオレンジジュースの入ったコップが一つ。光はそれをテーブルに移動させた。テーブルの回りには三つの椅子がある。舞夜の隣の椅子に光は腰を降ろした。
暖かい食物を口にするのは、舞夜にとって久しぶりだった。そのせいか、舞夜は光がどうぞと言わないうちにフォークを手にして、スパゲッティを口にほおり込んでいた。その仕草はやはり幼さを感じずにはいられない。光は頬杖を突きながら、昔の自分が映っているアルバムを開くかのように、懐かしさにも似た喜びを噛み締めていた。
この子は、本当は何なのだろう? 美味しそうにスパゲッティを食べる舞夜を眺めながら、光は考える。自分によく似ている。これは単なる偶然なんだろうか。もしかしたら、父の隠し子なのかもしれない。しかし、それだったらこの子にも母親がいるはずだ。きっと自分の知らない女の人。その人はもしかしたら自分の母親によく似ている人なのかもしれない。いや、もしかしたら、自分の母親と同一人物かもしれない。実は自分には妹がいるのかもしれない。
様々な思いが光の中で交錯する。しかしどれもこれも不明瞭で、はっきりとしない。喋る事が出来れば、分かるかもしれない。でも、それは出来ない。
「‥‥あなた、舌が半分無いのに、味が分かるの?」
「‥‥」
光が囁くように言うと、舞夜はフォークを止めて光を見つめる。そして、お菓子の家を見つけた童話の中の子供のように笑った。どうやら、味は分かるようだ。しかし、それも本当なのか分からない。もしかしたら、暖かいという事しか分からないのかもしれない。偽りかもしれない微笑み。光には今の笑いが、とても痛々しく思えた。
そして、それが自分の笑みと似ていると感じた。
「‥‥」
光はこの家の中では明るく振る舞っていたが、本当はいつも孤独感に苛まれていた。実の母が死んだあの日から、兄の望はどこか別人のようになってしまった。自分を見る目も前とは違うものになっていた。父の真一郎も外出が多くなり、自分とはあまり接しなくなってしまった。新しく来た優香も恵美も真一郎も、自分に優しくしてくれた。
でも、それは光の求めていたものとはどこか違っていた。光自身、どう違うのか分からなかったが、でも、想像していたものとは確かに違った。ずっとあっていると思っていたパズルのピースが、実際嵌めようとしたら全然嵌まらなかった。そんな、違和感だった。
それを強いて言葉にするならば、愛が無かった。光が欲しいのは友情でも、同情でも、親しみでも無かった。
愛だった。人類愛にも似た、比類無き愛情だった。
でも、誰もそれを完全には満たしてくれない。自分と接してくれる人は皆どこか他人行儀で、自分を心の底から愛してくれない。表面だけ上手く付き合っていれば、それでいいと皆思っている。誰も心から親身になってくれない。
でも、それで彼らとの間に溝を作ってはいけない。幼心にそう思った光は誰にでも笑顔を向けた。出来上がってしまった関係を綻ばせない為に、常に笑顔を絶やさないようにした。どんな時でも笑って、笑って、笑った。
それで、今までやってきた。今ではどの笑顔が本当で嘘なのか、光自身分からなくなっていた。
その時現れた、自分と瓜二つの少女。彼女の素性は全く分からない。でも、彼女は自分の事など何も知らない。知らないからこそ、光は彼女に強い期待を持った。彼女ならば、自分の望む愛を授けてくれるのではないか。自分の立場に同情する事も無く、純粋に愛してくれるのではないか。何よりも今の笑み。それが自分と似ていると感じる。もしかしたら、この出会いは運命だったのかもしれない。満たされない自分と、偽りのように見える笑みを浮かべる少女。出会うべくして出会った自分と彼女‥‥。
「‥‥」
光は黙々とスパゲッティをほおばる舞夜の頭をゆっくりと撫でる。舞夜は横目で光をチラリと見て、口の端から麺を出しながらも笑みを返した。
「‥‥」
でも、可哀相だと思う。何故、こんな小さな子が舌を失ってしまうのだろうか? 病気か何かで失わざるを得なかったのかもしれない。出会ったのも運命なら、彼女が舌を失うのもまた運命だったのだろうか?
どんな要因であっても、この子には舌が無いのだ。きっと、まともな学校にも行ってないのだろう。充分な生活も送ってないだろう。友達はいるのだろうか? 両親にはちゃんと愛されているのだろうか? 楽しいという事がどんな事なのか、知っているのだろうか?
きっと何もかも満たされていないのだろう。自分と同じだ。きっと、同じはずだ。いや、違わないわけがない。
自分はこの子に精一杯の愛情を注ぐべきだ。そうすればきっと、彼女もそれに応えてくれる。傷の舐め合い、と言うのかもしれない。でも、それでいい。表面だけの付き合いなんて自分には必要無い。体を寄せ合い、肌と肌を重ね合わせ、そして傷を癒し合う。それが今の自分には必要なのだ。
「あなたが望むものがあれば、私は何でもあげるわ。スパゲッティだって、全部あげるわよ。他に何か望むものは無いの?」
喋れないのに、どうして私はこの子に答えを求めようとしているのだろう。光は自分で自分がおかしくなった。しかし、舞夜はそんな自虐的に笑う光をまじまじと見つめた。
望むものがあれば、何でもあげる。
その言葉が舞夜の脳裏に焼き付く。この人なら、言ってくれると思っていた。やはり、この人だけだ。自分の事を分かろうとしている人は。あの四人はそんな事はしてくれない。彼らは奪う事しかしない。でも、この人ならば与えてくれる。失ったものを取り返してくれる。取り戻して、心の底から笑いたい。もう戻ってこないのならば、奪った者から同じものを奪いたい。
あの四人にも失ってほしい。失い続けて、絶望して、そして涙を流してほしい。手にしようと腕をのばし、それでも掴めない悲しみを知ってほしい。一昨日の夜、彼らは自分が涙を流した事にすら気づかなかった。自分が涙を流した事を知ってほしい。
「‥‥」
舞夜はフォークを置くと、光に近寄った。光は近づいてくる幼い自分の顔を真正面から見つめた。何故か体が動かなかった。まるで自分が人形になったかのように、体という感覚が無かった。そして、舞夜の顔が自分の顔にどんどんと近づき、やがて唇同志が触れ合った。触れたら消えてしまいそうな柔らかな感触。これまで感じたものの中で、最も甘く暖かい感触。光は抵抗する事も無く、その口付けに身を任せた。
舞夜は光の太股の上に乗り、両腕を光の首に回した。絶対に唇は離さなかった。悲しい事だと思った。あの憎たらしい父を見て唯一学んだ事。それは自分の愛を相手に伝える時は、唇を重ねるという事だった。そうすれば、相手は自分を何よりも信用してくれるようになる。身も心も自分に委ねてくれる。
舞夜はこの人と一緒にあの四人を消してしまおうと決めた。父と同じように。そして、この人と二人で暮らして、生きるのだ。
光は何故この子がこんな事をしているのか、さっぱり分からなかったが、でもこの行為が嫌だとは思わなかった。逆だった。心地良かった。消え入りそうな仄かな微睡みが頭の中に入り込んでくる気がする。何か、この子の考えている事が自分に流れこんでくるかのようだった。熱い吐息と溶けてゆくアイスのような舌が、光の中に注ぎ込まれてくる。
「‥‥あなたは、何を望むの?」
潤んだ瞳で、光は舞夜を見た。